400年の歴史がある護國院(読み方はごこくいん)は、かつては東叡山寛永寺三十六坊の一寺で、寛永寺の中では最も早くできた子院の一つ。
通称「護國院大黒天」や「釈迦堂」とも呼ばれています。
もともとは鬼門封じの祈願を行うために開かれた寺院でした。
お釈迦さまの生まれた4月8日の花祭りと、お釈迦様の亡くなられた2月15日の涅槃会では、寛永寺一山住職が護国院に集まって法要をおこなっています。

目次
・歴史とご本尊・ご利益
・山門
・境内
・本堂(釈迦堂)
・御朱印
・谷中七福神
・アクセス
・近くにある神社・寺
東叡山寛永寺 護國院の歴史とご本尊・ご利益
ご本尊は千手観音菩薩像。
開祖は生順僧正。
1625年(寛永2年)に天海僧正が東叡山を開かれた際、弟子の生順僧正に命じ東叡山最初の子院として建立。
当初は、現国立博物館の裏あたりにありました。
1630年(寛永7年)に釈迦文珠(古佛師春日作)、普賢の三尊像を安置する釈迦堂が建てられ護國院がその別当寺に。
根本中堂が完成するまで、釈迦堂は東叡山の総本堂として役割を担っていました。
その後、三代将軍家光の霊廟建立、五代将軍綱吉の霊廟建立の際に幕命で移築を余儀なくされ現在地に。
釈迦堂が焼失・移築を経て護國院の本堂に。
大坂城落城25年にあたる1639年(寛永16年)に、豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念佛法要を斎行すると、敵味方関係なくご回向をおこなったことを称えられ、三代将軍家光公より藤原信実卿筆と伝えられる大黒天の画像が寄贈されました。
以来、尊像護國院大黒天としてをお祀りし、現在は谷中七福神の一神にもなっています。
1717年(享保2年)に釈迦堂は焼失・再建。
1927年(昭和2年)に現在の上野高校創立により土地を譲渡し、本堂を現在の位置に移動しています。

東叡山寛永寺 護國院の山門
護国院山門の左柱には「大黒天」、右柱には「護国院」、そして左柱右奥に大黒天の立札があります。



東叡山寛永寺 護國院の境内
山門を入ると、数メートル先に本堂とコンパクトな境内。
右側に手水舎、左側に楽堂。
大随求陀羅尼が刻まれている大随求陀羅尼宝塔もあります。



東叡山寛永寺 護國院の本堂(釈迦堂)
享保の火事の後すぐに再建された約300年前の歴史ある建物。
護国院は気軽に立ち寄れる開かれたお寺として、内陣まで自由に拝観できます。




堂内には、釈迦堂のご本尊である釈迦如来、護国院のご本尊である千手観音菩薩、徳川家光から賜った大黒天、十二支の守り本尊が祀られています。
大黒天は、縁日である甲子日と元旦、毎月3日など特別な日に御開帳しています。
また、柱に描かれている二つ引きの家紋は、護国院を建てる際に材木や金子などを寄進した天海僧正の紋。
天井や欄干には狩野重信が描いたとされる壁画が残っています。
東叡山寛永寺 護國院の御朱印
御朱印も本堂で対応されており、インターホンで呼び出すスタイルです。
御朱印は、ご本尊の釈迦如来と谷中七福神の大黒天。
また、正月期間(元旦~10日)であれば、谷中七福神の専用朱印もいただけます。

東叡山寛永寺 護國院の谷中七福神
江戸時代の頃から正月には、谷中七福神詣が盛んにおこなわれていました。
不忍池の辯財天。
上野護国院の大黒天。
谷中天王寺の毘沙門天。
谷中長安寺の寿老人。
日暮里修性院の布袋尊。
日暮里青雲寺の恵比寿。
田端東覚寺の福禄寿。
毎年、正月から10日まで開催されています。


東叡山寛永寺 護國院の詳細
東叡山寛永寺 護國院へのアクセス
- 東京メトロ千代田線:根津駅より徒歩9分
- 各線:上野駅より徒歩17分
東叡山寛永寺 護國院近くのおすすめ神社・寺
| 寛永寺 根津中堂 | 慈眼大師によって建立された天台宗関東総本山で徳川将軍家菩提寺。天井絵「叡嶽双龍」は見ごたえあり。 |
|---|---|
| 浄名院 | 東叡山寛永寺様の院の一つ。たくさんのお地蔵様が並ぶ光景は圧巻。 |
| 多宝院 | 御府内八十八か所四十九番目の札所。吉祥天を祀る吉祥堂があります。 |
| 妙泉寺 | 有名キャラクターの像が目を引く法華宗寺院。貧乏神が去るお参りの仕方があります。 |
| 本妙院 | 客人稲荷大明神を祀る寺院。また、性神信仰の金勢明神を祀る小さな祠もあります。 |






